子育てプレイ&MORE



2009年7月17日更新

訳あって仕事休みの水曜深夜、用事を済ませながらTVをつけていたら、HDDが何やら録画をしている模様。

「ははあ〜ん。女房の仕業だなぁ。」

「はて、何だっけ!?」

考えた挙句、

「そうか、『子育てプレイ&MORE』だ。」

チャンネルを変えて、見るとはなしに見ていました。


第2話。戸次重幸さんは、まだ出演ならず。


なのにその終盤。

主人公アリちゃんの夢の中に理想のパパが現れます。

その理想のパパが・・・・

戸次さん!?







登場!








「え”・・・・・・・・・・・・・。」














固まった。

本当に固まった。








その設定が、なんと、カーナンバー27の赤いマシンに乗るモナコ在住のF1パイロット。








それにしても、



赤いマシンで・・・



カーナンバー27。














すっげぇー。



この番組スタッフ。



すっげぇー。











赤いF1マシン  = フェラーリ。

カーナンバー27 = フェラーリのエースドライバー

(注:ルール改正により、1996年以降、マシンのカーナンバーは前年度の成績順に変わったので、今は違いますけどね・・・)。

そうなのです。
なまじカーナンバー1等にせず、スポンサーロゴも着かない赤いマシンのカーナンバー27。
F1好きなら、たまらない設定です。



いやぁ、語りたいこの話。
なのに、女房は寝てやがる。
話す相手もいない・・・。
しかし、話したい。





どうすんだよぅ 俺!   (←シゲちゃんか?)






白や、黒や、銀のマシンでカーナンバー1。

これはあまりにも、あざとい。


赤いマシンで、

カーナンバー27!

だからこそ、ツボなのです。


フェラーリと言えば、F1の歴史と言っても良い存在です。
F1がスタートした1950年から参戦し、現在に至る唯一のチームです。
日本のプロ野球に例えると、東京○人軍みたいな存在で、しばしば、ルールまでも左右し、F1界に大きな影響を与える程の発言権も持っているチームです。

(その為、僕個人的には強い時のフェラーリは、正直好きではなくて、勝てない時の方が好きなのですが・・・  ← 天邪鬼!)

そして、1981年以来、1995年まで、フェラーリのカーナンバーは27と28に決まっていました。



F1のルールでは、前年度のチャンピオンにはカーナンバー1、そしてそのチームメートにはカーナンバー2が与えられます。

時と共にルールは変わっているのですが、1973年頃から、1995年までは、チャンピオン以外のチームはそれぞれほぼ固定したナンバーを使っていました。

主なものを挙げると、

カーナンバー 3、4 ティレル
カーナンバー 5、6 ロータス(〜1978年)、ウィリアムズ(1982年〜)
カーナンバー 7、8 ブラバム(1974〜1977、1985〜1992)、マクラーレン(1979〜1984、1993〜)
カーナンバー 11、12 フェラーリ(1974〜1979)、ロータス(1980〜1994)
カーナンバー 15、16 ルノー
カーナンバー 19、20 ベネトン(1985〜1992)
カーナンバー 25、26 リジェ
カーナンバー 27、28 フェラーリ(1981〜)
と言った具合。

チャンピオンを輩出するか、あるいはチャンピオンが移籍したチームがカーナンバー1を手にするので、前年度チャンピオンを擁しながらチャンピオンを逸したチームは次年度にチャンピオンドライバーを獲得したチームのカーナンバーと入れ替わる訳です。
だから入れ替わりの多いチームほど、強いチームと言う事になります。

F1で最も伝統あるチームであるスクーデリア・フェラーリ。
本来ならば、もっと若いナンバーを手にしていていい筈なのです。
現にフェラーリもこのシステムになった当初、決して弱いチームではなく、常にトップ争いをするチームでした。
1973年はカーナンバー3、4、1974年から数年間はカーナンバー1、2か、11、12を交互に付けて走っていました。

ところが、ここで、信じられない事件が起こります。


フランク・ウィリアムズが創設したウィリアムズチームは、F1界のお荷物と呼ばれる様な存在でしたが、1978年にサウジアラビアのオイルマネーを手にして再建に成功し、1979年に念願の初優勝を果たします。
そして、その翌1980年にアラン・ジョーンズの快進撃により、遂にチャンピオンの栄冠に輝くのです。

もともと弱小チームだったウィリアムズチームですから、カーナンバーは当然若い数字ではありません。
そう、それがカーナンバー27と28だったのです。
ウィリアムズチームにチャンピオンナンバーが移ると共に、その27と28を受け継いだのが1979年チャンピオン、ジョディ・シェクターと、ジル・ビルニューブを擁するフェラーリだったのです。

多分この時、フェラーリにしてみれば、大した問題では無かった筈です。
「我々は強い。すぐにチャンピオンナンバーを取り戻せる筈だ。」
そう考えていたと思われます。

1980年、マシン開発の失敗から、不振に陥った1979年チャンピオン、ジョディ・シェクターが引退します。
そして、ナンバー2待遇であったジル・ビルニューブが、エースドライバーとして名乗りを上げます。
それまでも、パンクした後輪をものともせず、3輪でサーキットを疾走してみせたり、ワン・ツーフィニッシュを狙って追いすがるルノーと超接近戦の2位争いを演じたりと、しばしば荒削りながら、信じられない様なレースを展開し、伝説を作りつつあった彼でしたが、この頃、チームのマシン開発は方向性を見失いつつありました。

1981年、フェラーリ待望の1.5リッター・ターボ・マシン 126CKがデビューしますが、このマシンは開発者のハーベイ・ポスルズウェイトをして、勝てる筈のないマシンと言わしめた失敗作でした。
ところが、5月31日に行われた第6戦モナコGPでジル・ビルニューブはこのじゃじゃ馬で安定しないマシンをねじ伏せ優勝してしまうのです。
鬼気迫るマシンコントロールで、暴れまわるマシンを見事に手なづけ快走させたのでした。
この時の映像を見た事がありますが、マシンはありえない方向を向いたままコーナーを曲がってゆきます。
これもジル・ビルニューブの伝説のひとつです。

彼はこうした激しいレースを行っていたにもかかわらず、フェアプレーに徹していました。
しばしばチームメイトよりも速かったにもかかわらず、チームオーダーを受け入れ、ジョディ・シェクターのチャンピオン獲得の際には協力を惜しみませんでした。
そんなビルニューブが着けていたカーナンバーが27なのでした。

1982年、フェラーリはターボエンジンの熟成に成功し、この年の126C2は充分にチャンピオンを狙えるだけの性能を持ったマシンとなりました。
ドライバーは、カーナンバー27にジル・ビルニューブ、そしてカーナンバー28にフランス人のディディエ・ピローニと言う布陣でした。
シーズン序盤にはマシンのトラブルに泣かされますが、次第にトラブルも解消され始めたそんな矢先、大変な事件がおきます。

4月25日、第4戦 サンマリノGP。
ルノーの脱落により、ワン・ツー体制となったフェラーリ・チームはドライバーに指令を出します。
「このままの順位で、減速しゴールせよ。」

この時、1位はジル・ビルニューブ。2位はディディエ・ピローニでした。
指示を受け、ビルニューブは減速しようとしますが、ピローニは加速し不穏な動きをみせます。
そして、あろう事か最終ラップでビルニューブを抜き去り、優勝を奪ってしまうのです。

フェアプレイに徹し、チームプレイに協力を惜しまなかった彼にとって、このフランス人の採った行動は許しがたい行為でした。

そして、続く第5戦ベルギーGP。
予選アタックで、ピローニに先行されたビルニューブは、勇猛果敢なアタックをします。
ところが、進路を譲ろうとした、ヨッヘン・マスのマシンに接触し、ビルニューブのマシンは宙を舞い、シートから放り出されたビルニューブは二度と帰らぬ人となってしまいます。

この年、フェラーリは優勝を重ねるものの、ビルニューブを死に追いやったディディエ・ピローニは第12戦西ドイツGPで両脚複雑骨折の大事故を起こし、レース引退に追い込まれるなど、不運に見舞われ、結局チャンピオンを逸してしまうのです。

その後も、有力チームでありながら、マシン開発の失敗、内紛、内輪揉め、お家騒動などが続き、チャンピオンを逸し続けた結果、カーナンバー27と28はいつまでもフェラーリに受け継がれ、いつしかフェラーリの代名詞になりました。

そして、ジル・ビルニューブと言う稀代のスター・ドライバーが乗ったカーナンバーだから、その後、カーナンバー27はフェラーリのエースナンバーと言う位置づけになったのです。

実際、ミケーレ・アルボレート、ナイジェル・マンセル、アラン・プロスト、ジャン・アレジとそうそうたるメンバーがこのナンバーのマシンでレースに出場しています。
(チャンピオンになったアラン・プロストがフェラーリに移籍してマクラーレンにカーナンバー27と28が移った際には、アイルトン・セナがカーナンバー27を使っていました。)

だからこそ、カーナンバー27で赤いマシンときたら、オールドファンにとってはただじゃ居られないのです。




あっ、そうそう、F1パイロットの彼がモナコ在住ってのもツボでした。

そう、F1パイロットの多くはカジノで儲けるので、住人に税金の掛からないモナコに住んでいる人が多いのです。



『子育てプレイ&MORE』

恐るべし、番組スタッフ。


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